※このnoteはネタバレを含んでいます。内容を知りたくない人は読まないことをおすすめします。
※この記事はこちらのnoteに書いた記事をブログに転載したものです。
昨晩、新海誠監督の「天気の子」を観まして、東京のオフィス街に汚された心がキレイに洗われた限界OLです。この清々しい(きよきよしい)心が残っているうちにバーっと感想めいたものを書きます。
さて「天気の子」ですが、まず私の率直な印象としてはレビューなら☆4.2くらいあげたい。個人的には前作の「君の名は。」より好みでした。
- 「祈るだけで晴れにできる女の子」というキャッチーかつスケール感があり、映像的にも映える設定
- 美しい映像描写
- 巧みな音楽の使い方
などなど、良かった面を挙げるのは簡単です。褒めるちぎる記事はもうみんな書いているだろうしつまらない。
ということで私は、最高に心を洗ってくれた天気の子を、”あえてディスる方向で”感じたことをまとめてみようと思います(笑)。
ブログじゃないので思いついたままバーっと書きます。推敲もしません。誤字脱字、読みにくかったりしたらすみません。
クライマックスで選択を迷わない主人公・帆高
この映画のクライマックスでのテーマは間違いなく「選択」でした。
- 世界を取り戻すために彼女を犠牲にするか
- 彼女を取り戻すために世界を犠牲にするか
片方を取れば片方を失う、正解のない究極の選択。トロッコ問題とかでテストに出るやつ。
で、主人公の少年・帆高は、世界の「晴れ」を犠牲にしてでも最愛の彼女である陽菜を助けるという選択を取りました。まぁそうだよね、映画だもの。
でもね、帆高、
もう少しは悩んでも良かったんじゃない?
って私は感じてしまいました。シーン的な話ではなく、シナリオ的にね。
ずーっと降り続いた雨。ながく人々の笑顔を奪ってきた雨。それが、陽菜という人柱を生贄にしたことでようやく晴れを取り戻すことができた。
もっとですね、裏で陽菜という一人の少女が犠牲になったことも知らずに、晴れた青空によって平和を取り戻す人々のシーンを描いて欲しかった。
雨がやんだおかげで須賀さんの娘の喘息も治って元気に走り回る姿とか、それを幸せそうに見つめる須賀さんたちの顔を見つめながらね……でも、一人だけ真相を知っている……この平和の裏で一人の少女が犠牲になったことを、只一人知っている帆高の苦しみが見たかった……。
陽菜を取り戻したい。当たり前だ。でも陽菜を取り戻せば、この人々の平和(晴れ)をまた奪うことになってしまう。自分ひとりのエゴで、世界を再び壊してもいいのか?
……みたいに葛藤する帆高が見たかったよぉぉぉ!!
基本的に悩まない(心の葛藤がない)キャラクターたち
「ドラマとは葛藤である」とシナリオ界の偉い人は言いました。困難が立ちふさがり、悩み、苦しみ、もがき、それを乗り越えた先に再び困難がやってくる。その連続がドラマであると。
天気の子に出てくるキャラクターたちって、基本的にあんまり悩まないんですね。いや、悩むには悩むんだけど、行く手を阻むものは基本的に物理的な問題(宿がないとか警察の追っ手とか)で、心の中で葛藤したり選択に迷うシーンはさほどなかったと思う。
困難が立ちふさがっても次の瞬間には「逃げよう!」とか「助けに行く!」とかすぐ即決して即行動する。若手起業家か?ってくらい行動が早い。
わかるよ、(上映)時間ないもんね。
でも私としては、
帆高は、世界 or 彼女の究極の選択にもっと迷って葛藤して欲しかったし、
陽菜は、世界 or 自分、世界 or 帆高との人生に悩み、でもなかなか打ち明けられずに一人胸の奥に隠して苦しんでいる描写がもっと見たかった。
正直さ、映像美と音楽でドーピングしてる部分、あるよね?
新海誠作品というと、ストーリーよりも前に「映像美」や「音楽」といった代名詞が立つ。
確かに映画を観れば明らかに、映像の美しさや、ここぞという瞬間に挿入される音楽が、感情の高鳴りを加速させる「ドーピング装置」として機能的に、そして計算的に組み込まれていることを感じます。
とくにクライマックスで2人が空から落ちてくるシーンは「ストーリー」「映像」「音楽」の全てのピースが完璧にハマったカタルシスが味わえて鳥肌ものでしたよ……。
またシーンによっては明確に音楽を聴かせるために他を排除する場面もあって、アニメにさほど精通していなかった私はとても驚きました。
アニメ映画ってあんまり観ないんですけど、音楽の使い方がめちゃ大事なんですね。それとも深海監督の技なのかな?
音楽が感動を加速させる感じが凄かった。まさに総合芸術という感じ。#天気の子
— 高橋ソマリ@映画ブログ (@somari01) August 8, 2019
これは新海誠監督の演出手腕であり強みなのでしょう。
でも、その「映像美」と「音楽」の装置のドーピングが強すぎてゴリ押ししてない? という感じがしなくもなくもなくもない。
確かに映画は総合芸術だけど、その心臓は「ストーリー(脚本)」である。とピクサーの偉い人は言いました。
では天気の子のストーリーはどうだったか?
ストーリー単体で考えると、正直そこまで秀でたものはないと感じます。少なくとも作家性はないに等しい。
晴れ女という題材はキャッチーだけど、主人公2人のキャラ造形はベタな類型タイプで特別面白みや新鮮味はないし、プロットで見てもストーリー展開に目新しさはなく、ラストにどんでん返しが待っているわけでもなく、張り巡らされた伏線が回収されるような楽しみもなく、おはようからおやすみまでベタで王道な展開に徹底しています。
第一幕で陽菜が晴れ女ビジネスを始めた段階で、「あー、これ後で代償を支払うことになるパターンだ」「代償として陽菜が死ぬ(または消える)パターンだな」と、およそ誰でも感づくでしょう。
ストーリー単体で評価すれば、「よくあるラノベ」の域を出ていないかもしれません。おそらく、高尚な映画評論家()の方々の中からは「作家性がない」とか「薄すぎる」とか「浅すぎる」なんて批判を受けそうな天気の子です。
でも、ここで大事なのは、
それでも、めちゃくちゃヒットしているという事実。
実際に私も「良い映画だった」と感じたという事実。
傑作「サマーウォーズ」を経て、「バケモノの子」から「未来のミライ」へ、方向性は分からないが”作家としての深みは増した”なんてボジョレ・ヌーボー的な評価でフォローされる細田守作品が興行収入を落としていく一方で、
なぜ一見すると、ベッタベタでピュアすぎて100%桃の天然水みたいな新海誠作品が次々と記録を打ち立てていくのでしょうか?
通勤電車のなかで、暇な私は考えました。
今の若者はコンテンツを消費するのに頭を使わない
「君の名は。」や「天気の子」のメインターゲットは、20代を中心とした若者カップル層。腰を据えてテレビを見るより5分のYouTube動画を連続再生し、新聞よりもTwitterのタイムラインをどんどんスクロールするような高速消費世代です。
これは私の考えであり偏見かもしれませんが、今の若い人たちはコンテンツを消費するのにどんどん頭を使わなくなってきているように思えます(バカと言っているわけではないよ)。言い換えると今の消費者は頭で考えるよりも、より視覚的に楽しく、より聴覚的に心地の良い、「五感でわかりやすいコンテンツ」を好むようになっているのです。
推理要素を年々縮小し、アクション映画へと比重を移してきたコナン映画がそれを物語っているかもしれません。
少し話が逸れますが、以前にマツコデラックスか誰かが、
「今の若いアーティスト(ミュージシャン)は、歌詞で「愛してる」とか「さみしい」みたいな直接的な表現を普通に使う。「愛している」という言葉を使わないで「愛している」を表現するのがアーティストだろ!」
てきなことを言っていました。だから今のJ-POPは浅くなった、レベルが落ちたみたいなトーンだったと思います(はっきりと覚えてません)。
でもこれって逆に言うと、J-POPが浅くなったのではなく、(消費の仕方が)浅くなった消費者にJ-POP(の作り手)がレベルを合わせてる可能性も微レ存じゃない? なんて思ったりもするのです。
音楽がCDからダウンロードに移行したことによって「歌詞カード」がなくなりました。昔はCDを買って、新譜を聴きながら膝に広げた歌詞カードを眺めて、「こういうことを歌っている曲なんだな。うふふ」なんて歌詞に思いをはせましたよね。Boys & Girlsはマックス松浦を想った歌なんだなぁ、なんて。
そのように作品を骨まで”咀嚼”する楽しみ方を、今の人たちはしないのです。
作り手側がどれだけ深い表現をしたところで、それを汲み取って、掘り下げて、コンテンツを咀嚼するという習慣のない今の消費者にとっては、肌感的に「なんか良かった/なんか良く分からない」で終わるのです。それ以上先に思考が進みません。
椎名林檎の難解で深い歌詞とか、もう疲れちゃう。「止まらないよ〜止まらないよ〜溢れるその涙は〜 」くらいなーんにも考えないで聴ける歌詞の方が疲れないので良い(20代 女性)。
例えばさ、天気の子を観た人の中で、この記事程度のザツな考察でも書ける人ってどれくらいいると思う? たぶん10人に1人もいないと思うんですよね。
9割の人は「なんか良かったわー」「心洗われたわー」「あのシーン震えたわー」くらいの肌感の消費で終わっているでしょう。「楽しかった。泣けた」以上の感想を語れる?
そして寝て起きたらその残り香さえ半分くらいに薄まっているはず。なぜなら作品に五感で触れただけで、脳みそでは消費していないから。Makoto Shinkaiが骨髄液までひたひたに染み渡っていないから。
やべぇ……心洗われた……#天気の子
— 高橋ソマリ@映画ブログ (@somari01) August 8, 2019
今の観客は、「作家性」と称される表現をかみ砕けるほどコンテンツを咀嚼しない。頭を使いたくない、疲れたくないのです。だから今の時代、星野源みたいな「聞いてて疲れない歌手」が売れるんだ、と某人気ボーカリストが言ってました。
そういう視点でみると、新海作品は「分かりやすさ」を異常なまでに徹底しています。
観客の頭にひとつの「?」も浮かばせずに、素麺のようにスルスルと負担なく頭を流れていくストーリー展開。「行間を読め」とか「解釈を客に委ねる」みたいなクソ面倒くさいことは絶対しない。キャラクターは初々しさと透明感で嫌味がなく、とにかく気持ちのいいシーンだけを並べていく。中にはときどき見ていて恥ずかしくなるようなシーンさえあります。
(そこに、分かりやすく美しい「映像美」と、分かりやすく耳心地の良い「音楽」という強力なドーピングが加わる。むしろ作家性はそっちにある)
物語としてこの「作家性のなさ」は、私はどう考えても意図的にそう作られたものとしか思えません。日本を代表する一流のクリエイターたちによって、あえて作家性が排除されたのです。
なぜか? 作家として一番の評価とも言える「作家性」をなぜ排除したのでしょうか?
新海監督は言いました。
「100億円を売り上げるためだ」と。
「1000万人に観てもらうためだ」と。
(言ってません。全て私の妄想ですw)
つまりそれくらいストレートで分かりやすく、変な味(作家性)を出さず、100%桃の天然水でできた作品でないと、最大公約数(1000万人の観客)には刺さらないなんだなーと。
改めて、新海誠監督すごいなーって思いました。まる。
なんだか何が言いたいのか分からなくなってきたし本業の方が限界OLなので、この辺で唐突に筆を止めます(笑)。疲れたー。
ps. 新海作品は昔に「秒速5センチメートル」だけ見たことあるのですが、内容が空気で何一つ思い出せません(怒られそう)。「あー、エンタメよりアートよりの監督だー。雰囲気押しのやつだー」と小並感を覚えた記憶だけがあります。
当時と比較すると、新海監督はかなりマス向けになり「売れる映画作り」に舵を切った感じでしょうか。私はアートよりもエンタメ映画が大好きなので、今の、そして今後の新海誠作品を楽しみに応援します(ケモナーはサマウォの頃に戻ってください頼む)。